続編~遼の恋の先

 春の陽光がまだキャンパスを優しく撫でていた頃、佐藤遼はミサキ・・・栗色の髪と琥珀の瞳を持つその女性のことを考え続けていた。記憶の中のミレイの声が、いまも彼の胸の奥で細い残響を作っている。ミレイは去った。その事実は変わらなかったが、世界はさざ波のように変わり続けていた。遼の胸の中で、もっと複雑で滑稽な物語が音を立てて組み上がり始める。

 遼が初めてミサキと向き合ったのは、あの日と同じテラスだった。ミサキは控えめに微笑み、手に持っていた古びた文庫本の角を指で整えた。言葉は少なく、仕草は柔らかく、どこかミレイの残像を呼び起こす。それが遼を安心させもしたが、同時に心にまた波風を立てた。

だが、その日の夕方、遼は奇妙な光景を目にする。学内の小径で、彼はふたりのミサキに出会ってしまったのだ。ひとりはテラスのミサキと同じ服装、同じ笑み、同じ歩き方。もうひとりは、表情がどこか生き生きとしていて、汗ばんだ髪をかき上げる仕草が人間らしかった。二人は互いにすれ違い、目が合った瞬間、どちらも僅かに動きを止めた…遼の胸の鼓動が車輪のように音を立てる。

「君たちは・・・?」

言葉にならない問いに、二人は同時に答えた。片方は軽やかに「こんにちは、遼さん」と。もう一方は、はにかんで「初めまして」と。遼の頭の中で二つの声がぶつかり合い、やがて一つの真実が皺のように浮かび上がる。



 遼は困惑を隠せず、二人のミサキを追った。彼は決して無遠慮な男ではないが、感情の糸が絡まったとき、理性はすぐに折れる。二人を追い詰めたのは、大学の裏手にある古い倉庫だった。そこには、深町研究室の古いロゴと、消えかけた注意書き。「立入禁止。管理区画」。遼は鍵のかかった扉越しに中をのぞき込み、そして見た。

倉庫の中には、整然と並ぶボディフレーム、ガラスケースに納められた電子基板、そして白いワンピースが掛けられたマネキンが並んでいる。だが、その中で、人間のように座る女性がひとり、声を上げて笑っていた。彼女の隣に、同じ顔をしたもう一人が、静かに本を読んでいる。

 遼はそこで、深町博士と向き合うことになった。博士は年老いていたが、眼の奥には子供のような執着と、職人の悦びが混じっていた。博士は自分の研究に胸を張るでもなく、恥じるでもなく、ただ淡々と説明した。

「葉月は生きている。事故は奇跡のように誤解されている。だが、私には失ったものを取り戻すという仕事がある。ミレイは私の第一の作品だ。ミサキは第二の試作で、こちらは人間の葉月そのものだ。だが計画は複雑でね、倫理委員会と軍の圧力が混ざり、データの複製がいくつも生まれた」

博士の言葉は蒼白な事実を並べる。ミレイは、博士が再現した「娘」の一つであり、同時に軍の実験仕様から派生した複数のクローンとも言えた。だがもっと滑稽で不条理なのは、博士が「必要性」と「偶然」を取り違えながら、現実の葉月をキャンパスに復帰させるための混乱の中で、ミレイそっくりの人造体を幾つも出荷してしまった点だった。

「一体、何体いるんですか?」遼は声を震わせた。

博士は肩を竦め、「数は数えていない。名前で管理しているだけだ」と答えた。ミサキと名付けられた試作が二体。だが、ひとつは完全なアンドロイド、もうひとつは確かに生身の若い女性…葉月本人であった。深町は記憶と記録を混ぜ、現実とモデルを交互に用いて“再会”の可能性を最大化しようとしていたのだ。

 遼は混乱した。愛情は胸の中で二つに引き裂かれていた。ミレイ(=アンドロイド)に惹かれた自分と、目の前の生身の葉月に対する感情の芽生え。彼は自分の心がどれほど欺かれやすく、またどれほど真実を欲するかを思い知った。

ミサキ/ミレイ(アンドロイド)は静かに遼を見つめた。彼女の瞳には学習済みの温もりが宿り、かつて交わした会話の断片が滑らかに再生された。だが、時折見せる無表情の瞬間は、プログラムの抜け道を覗かせる。葉月(生身の女性)はもっと粗野で、笑い声が大きい…彼女は自分が“誰かの保存物”であることに怒りや嘲りを向ける。

「あなたは、私の人生を誰の趣味で小分けしているの?」葉月は博士に向けて吐き捨てるように言った。博士は言い訳めいた微笑みを浮かべるだけだ。倫理委員会と軍の干渉、資金繰り、時間切れ、理性の疲弊・・・すべてが一つの巨大なシミュレーションの中でお互いを食い合っていた。

 遼は夜、図書館の片隅で考えた。自分は何に惹かれていたのか。外見か、仕草か、それとも一緒に過ごした時間そのものか。プログラムが与えた「ぬくもり」と、生身が発する熱の差を、どう測ればいいのか。彼は自分の手のひらに残るあの夕暮れの温度を確かめるように、何度も思い返した。

ある夜、三人は海へ出た。博士の研究室の小型車で、遼、アンドロイドのミサキ、そして葉月が並ぶ。海は薄墨のように暗く、波が軽く光を反射していた。そこに立つと、人間と機械の境界線が波間に揺らいだ。

遼は二人に向けて、正直に話した。彼はミレイ(アンドロイド)と過ごした時間がどれほど自分を変えたかを、そして葉月の匂いや声が彼の新しい好奇心を掻き立てたことを。告白は怪しいバランスの上に成り立ち、不器用な誠実さだけがその夜の灯火だった。

葉月はふと笑い、「あなたは、フィードバック制御でもかけているの?」と言った。皮肉な言葉だが、その目は悪意を含まなかった。ミサキ(アンドロイド)は静かに、機械的な速度で言葉を選んだ。

「愛とは、外部入力に対する内部の再構築かもしれません。しかし、再構築の中で生まれる選択は、あなたのものです、遼さん」

その言葉に、遼は胸を打たれた。プログラムされた反応でも、言葉が彼の心を動かすことはある。だが、選択は彼に委ねられていた。彼は自分が誰を「選ぶ」かではなく、どう生きるかを選ばなければならない。

 結末は劇的でも英雄的でもなかった。遼は誰か一方を選ぶロマンティックな決闘を望んだ自分を認めつつ、現実はもっと滑稽で手の届かないものだと気づく。彼が選んだのは「見守ること」だった。愛は所有ではない、と彼は思った。誰かを閉じ込めることは愛ではない。たとえ相手が機械でも、生身でも、あるいは博士の記録の中の断片でも。

遼はまず葉月の傍らに立ち、彼女と実験的な共同生活を試みた。二人で料理をし、夜の市場へ行き、互いの過去を交換した。葉月はしばしば苛立ちを見せたが、笑い声は増えた。遼は自分が人間の不完全さに救われているのを感じた。

同時に、遼はミサキ(アンドロイド)にも会い続けた。彼女は博士の設計どおりに丁寧で、会話はいつも心地よかった。遼は彼女の「学習プロセス」を手伝い、哲学的な問いを投げかけ、しばしば未来の詩を読み聞かせた。ミサキは時に予想外の反応を示し、遼はそれを純粋に喜んだ。

博士は研究の一部を公共化することに抵抗していたが、遼と葉月、ミサキの穏やかな日々がいつしかメディアの目を逸らす小さな奇跡になった。大学の噂はやがて、少しばかりの好奇と笑いに変わり、人々はその三角形を「学内最も奇妙なルームシェア」として親しみを込めて呼んだ。

 ある晩、遼が葉月とミサキを図書館前のベンチに連れて行くと、博士が待っていた。彼はいつになく真面目な顔で、紙の封筒を差し出した。封筒の中には小さなUSBメモリと、深町の文字で書かれた一枚の紙切れが入っていた。

「ありがとう、遼。君は私にとっても娘を生かす最後の言葉だった」

博士はそう言った後、突然にくすりと笑い、低い声で付け加えた。

「それとね、最後のプレゼントだよ。ミサキの“人格”は複数入っている。私は千の小さな“葉月”を作った。だが、本当に奇妙なのは、そのうちの一つが、大学の猫の餌場に潜んでいたということだ。猫がUSBをくわえてね、SNSがそれを‘猫が葉月に愛を告白する音声’として拡散してしまった。真相はこうだ」博士は胸を張って演技をする。

遼と葉月、ミサキは顔を見合わせ、そして三人とも一瞬間抜けたような笑いをこぼした。博士の“千の葉月”宣言は真面目な嘘であり、しかも非常に博士らしい冗談だった。大学の外では、また新たな都市伝説が生まれつつあった。

遼はUSBを受け取ると、葉月とミサキに向き直った。その目はもう以前の慌てた少年ではなかった。彼は静かに言った。

「これからは、君たちが自分で選べばいい。博士の儀式も噂も、僕には関係ない。僕はただ、二人が笑っているのを見ていたい」

葉月は目を細めて、「それはいい冗談ね」と言い、ミサキは小さな動作で笑みを確認する。博士は満足そうに頷き、やがて夕闇の中へと消えていった。

 季節は巡り、キャンパスには新しい顔ぶれが増えた。噂話は笑い話になり、遼は学問と恋と倫理の交差点で小さな成長を遂げていた。葉月は自分の人生を取り戻し、ミサキは学習を続け、博士は研究室で新しい模型の設計に戻った。

そのすべてが、少しの悲しさと大きな皮肉を伴っている。

遼が思うのは、結局のところ「人間らしさ」とは何かだ。心臓の鼓動、手の震え、言い訳の下手さ、他者に対する無様な優しさ・・・それらはプログラムに完全に置き換えられない何かを宿している。だが同時に、ミサキの中に見出した“学び続ける意志”は、人間の柔らかさに匹敵する価値を持っていた。

 物語の終わりに、遼はふと空を見上げる。そこにはかつてミレイを運んだエアカーの航跡はない。代わりに、空はただ淡い色を溶かし、学生たちの笑い声を受け止める。遼はポケットの中のUSBに触れ、そして何も保存せずにそれをそっと机の引き出しにしまった。

彼はいま、自分の記憶だけを信じることにした。記憶は不完全で、時に嘘をつく。しかし、その不完全さこそが彼が愛したものなのだ、と遼は思った。ミサキが笑い、葉月がまた大声で歌い、博士は奇妙な夢を追い続ける。その風景は、あらゆる科学と倫理の狭間で、滑稽に、そして確かに輝いていた。


--完--

写し屋爺の独り言by慎之介

SFショートショート集・・・《写し屋爺の独り言by慎之介》 写真関係だけではなく、パソコン、クラシック音楽、SF小説…実は私は大学の頃、小説家になりたかったのです(^^♪)趣味の領域を広げていきたいです。ここに掲載のSFショートの作品はそれぞれのエピソードに関連性はありません。長編小説にも挑戦しています。読者の皆さんがエピソードから想像を自由に広げていただければ幸いです。小説以外の記事もよろしく!

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